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  • 2012.06.23 Saturday
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エイゼンシュタインの呪縛

 
小説家や音楽家など、いわゆる芸術家と呼ばれる人たちとは、常人とはかけ離れた想像を絶する才能の持ち主のことをいうのだ…。



というような「才能」一般に対するイメージを覆そうというのが今回取りあえげる大塚英志の著作である。大塚によれば、大雑把に言ってしまうと物語の創作とは、場面設定の組み合わせを各々自由に組み合わせることで完成してしまう、というものだ。むしろわたしたちは、様々な場面設定(抽象的な「闘争」「勝利」などの単語の組み合わせでも構わない)さえ与えられれば、自由自在に物語らしく物語ってしまう習性をすでに持っているというのだ。



小説家になるためのハウツー本として書かれている上記2冊は、様々な場面設定の組み合わせによる創作行為を繰り返すことにより、小説家として物語を物語らしく創作してしまう練習帳のような体裁をとっている。



実はこの場面設定の組み合わせによって物語る行為というのは、マンガやアニメ、映画にもほぼ同じことが言えてしまう。映画『悪人』の1シーン、犯人(男)とその恋人である主人公(女)が自首をしようと警察署前まで車で移動する。次のシーンで彼ら二人を乗せた車が警察署前の信号で止まる。次のシーンでは外から大雨が二人の乗る車に降り注ぐ。まったくセリフがなくとも、二人の心は雨で濡れている=別れを惜しんで悲しんでいる…という印象をわたしたちは抱くだろう。



このように映画やアニメでは場面=映像の組み合わせによって、言葉を使って説明しなくとも、それを観たわたしたちは自由自在に物語を読みこんでしまう(映画監督エイゼンシュタインによる映画論で提唱されたことは有名)。



ところがここで困ったことに気付く。場面の組み合わせによって物語を自由自在に読み解くとは、場面の組み合わせによってしかわたしたちは物語を物語たらしめることができないという不自由に気付くのだ。



大塚がその典型的な例として挙げるのが、村上龍や村上春樹、そしてスターウォーズである。彼らの作品はその場面設定の組み合わせの技術を意図的に向上させ、物語らしさの極北とでもいうべき地点へと到達しているというのだ。



そしてわたしたちは、言い方は悪いが、良くも悪くも彼らの物語技術に騙され続けていて、むしろそれを手放しで喜び、物語を欲してさえいる。言い換えればわたしたちは物語に対する欲望を先鋭化させ、彼らはそれに見事にこたえている。



『物語論で読む〜』はそのような日本の文芸・アニメ状況に対し鋭くメスを入れた優れた批評である。物語技術を大塚は「物語の構造」とし、村上春樹や宮崎駿が世界に評価されている理由は、その物語の構造にあるとする。そして大塚は物語の構造に対する欲求が、芸術作品だけではなく、現実の政治に向かっていることをさらに問題視している。9・11後のブッシュや日本の小泉政権による劇場型の政治「物語」に、自らを物語の主人公と見立て、彼らの作り上げた構造に身を委ねてしまっていることに対する危惧である。



自分を構造に委ねるのであるなら、それは現実の政治ではなく、虚構である物語の中だけにしていてほしい…そんな願いが込められた本書は、日本の戦前のアニメにも全く同じ構造が戦意高揚のために使われていたことを分析し、現実と虚構とは改めてまったく異なるものなのだと叫び続ける。



現実の物語にコミットするのか、虚構の物語にコミットするのか、それは大塚の批評家とは別の側面であるまんが原作者としての一面をみれば明らかだ。虚構は虚構らしく生きなければならない。




都市計画者の過去、都市生活者の未来

 
都市計画という言葉が政策として語られるようになったのはいつごろからだろうか。政治的イシューとして目立つ所では、田中角栄の日本列島改造論だとか、国土形成計画法の母体(?)ともなった全国総合開発計画(全総)だろうか。

いずれにせよ、東京を中心とした日本の都市づくりから、地方自治へと政治的イシューが移り変わり、橋本府知事の大阪都構想然り、さいたま新都心、東日本大震災の復興計画まで、多面的な様相を呈している。

小松左京はその意味で、地方自治を考え続けてきた作家である。東京ではなく大阪を中心として考えていたという、恐らく当時はSF作家の放言としてしか受け取られなかった主張を展開している。

そもそも地方自治という考え方は、どのような都市を構想するのかということを基底に、日本全体をどのような国として構想するのかという問題であった。小松は云わば、戦後の高度経済成長のさなかで日本全体を構想した市井の作家だったが、それをその前から、つまり、戦前から考え続け、まさに日本の中心から考え続けた人物がいる。言うまでもなく、昭和天皇である。

皇太子時代から都市計画に興味を示し、地方視察を繰り返し、現天皇も継続し行っている地方巡幸などはすでに戦前から行われていた。当時、町村合併により、大大阪市が誕生している(1925年)。このことにも並々ならぬ関心を示し、視察も行っている。

関東大震災後の(後藤新平による)復興計画は、途中で挫折しつつも、震災以前以後では東京が大きく様変わりしている。宮城前広場(現・皇居前広場)の使われ方が、震災避難民の仮設広場としてその収容力を発揮し、以後、天皇が姿をお披露目する神聖な宗教的(且つ政治的)な劇場空間へと変化している。

大文字の政治や都市計画・地方自治を構想する人々とは対照的に、それに翻弄され続ける人々がいる。実際にはそういった人々=私たちの方が数の上で大多数を占めている。たとえば戦後の団地ブームによる計画された空間=団地。そこに住む団地住民の視点から描いた『滝山コミューン1974』(原武史)は、大文字の都市計画がどのような運命を辿って行ったのかを具体的に描いている。

戦後爆発的に増えた都市の人口を収容する団地。ところが単に人々を収容するだけでなく、左翼的な政治空間として培養され続けた歴史がある。昨今流行りのショッピングモールなどの新しい都市計画から取り残され、高齢化・過疎化が進んでいる団地の現実は、政治的な意味で示唆的ではないだろうか。

どんな政治的なスタンスや政策にコミットするにせよ、実際にその場所に住むのは私たちなのである。都市計画や地方自治は無理矢理私たちを当事者にさせる。私たちの街がどこへ向かおうとしているのか、それはどんな未来を描こうとしているのか。その未来に住むのも私たちなのだ。




K-POP化する世界

 
「今度私、釜山に旅行行くので来月有休お願いしまーす」

なんていう会話が巷では日常的に交わされるのに違和感を伴わなくなって久しい昨今。韓国は近い、国内旅行よりも安いなどと言われ、韓流などと揶揄される雰囲気もあまり感じられなくなった。特にK-POPと呼ばれる音楽や韓流ドラマが日本に与えた影響は計り知れないものがある。

特にK-POPは日本だけでなく、中国・台湾を中心とするアジア、フランス・ドイツなどのヨーロッパ、果てはブラック・アイド・ピーズのアメリカまで影響を与え、また支持されている。まさにK-POPグローバリゼーションの様相を呈している。

同2冊でも言及されている通り、グローバリゼーションには「現地化」という言葉がキーワードになる。ある一つの製品を他国で販売する場合、単に自国での製品をそのまま輸出するだけでなく、現地のニーズに合わせて製品をアレンジし、販売する。BOAや東方神起が日本語で歌ったのもひとつの現地化政策の成功例のひとつと言って良い。もし彼らが韓国語で日本デビューしていたら今の成功はあったか?想像しにくいだろう。

ところで他のアジアの国の音楽はどうか。もちろん韓国だけが明確に現地化政策を行っていたから、今の成功があるわけだが、他のアジアの国は(日本も含む)グローバルに開かれず、ローカル(な市場)に固執していたのか。もしくはグローバルな市場での成功を目論みながらも、現地化政策を行わなかったがために成功には至らなかったというべきなのか。恐らくその両方だろう。

ガラパゴス化という呼ばれる日本独自のケータイ電話の進化を考えれば容易に想像がつく。グローバルな市場ではなく、国内市場のみに焦点をあて製品を進化させる。むろん私はグローバルとローカルについて善し悪しを言いたいわけではない。それぞれに独自の音楽が生まれ、それはそれで刺激的なのだ。ところがグローバルでもローカルでもない、それとは関係がない音楽がアジアにあるという(『アジアのポピュラー音楽〜』所収 関口義人「中東のジプシー音楽のポップ化」)。

これまで「消費」という側面から音楽を述べたが、そもそも音楽の消費とは関係なく存在してきたジプシー音楽について書かれている関口の論文は刺激的だ。元々ジプシーという人々の出自自体が明確ではなく、「放浪する民」というイメージがあり、むろん彼らの「国家」という単位は存在しない。

グローバリゼーションを考えるにあたって、如何に市場の単位である「国家」を超えることができるか、というのがひとつのテーマである。政治の越えられない「国家」という壁を、市場が媒介することにより越えていく。それが経済のひとつの強みなのだ。

ところがジプシーの場合、市場の最小単位である「国家」を持たない。グローバルだかローカルだかわからないが、彼らの目の前には市場のみが広がっている。ただそれだけなのだ。

もちろん音楽が消費されるためだけにある、つまり音楽を売ったり買ったりすることを目的に商業化されることが前提であるならば、ジプシー音楽は冠婚葬祭などの儀礼に関する音楽であることを考えると、商業化とはほとんど関係のない歴史を持っていることは自明である。ただし商業化とは関係ないとはいえ、ジプシーは国家は持たなくとも、民族としてのアイデンティティー、つまり「ジプシー音楽っぽさ」は大事にしていたようだ。

ところが関口によれば、20世紀に入ってその事情が多少変化してきたようだ。様々な商業音楽の側から「発見」され、いくつかはCD化されているそうだ。

グローバル化が視野に入り、ローカルこそが民族としての誇りである、という政治的な意識が希薄になり、商業が前提となっていく考えかたが形成されたのは、20世紀も後半からだろう。同書を読んで共通するのは、アジアのどの国・民族でも世代によって違いがあり、世代が若ければ若いほどローカルな政治的抑圧を感じていない。

また判を押したように共通しているのは、グローバルの側からもたらされた「金融危機」によって自国の経済がズタズタになり、若者を中心とした民族回帰ともいえるような「アイデンティティーの確認作業」が行われていることだ。アジアではないが、以前、アルゼンチン音楽のライターから同じような現象が、アルゼンチンで起こったとの話を伺ったことがある。アルゼンチンの金融危機の時、ヒップホップやデジタル音楽をやっているような若い世代が、突如としてタンゴを演奏しだした…ということだった。

さて、「韓国」である。韓国も金融危機を経験している。ところが彼らは自国のアイデンティティー形成のために向かった先は、ローカルな共同体ではなく、グローバルな市場だった。いや、アイデンティティー形成のための危うい政治運動や北朝鮮との関係を経験している。しかし彼らの現地化政策はある種の「流浪の民」化し、それがむしろ支持されている。何とも不思議な現象だと言えないだろうか。

実はK-POPのおもしろさの秘密はここにあるのではないかとさえ思ってしまう。今後も目が離せない。

all the young dudes

 
2000年前後に高校生を対象に行われた、音楽やバンドに関する調査・分析本。

調査年が丁度ヴィジュアル系全盛期だったこともあり、ヴィジュアル系受容理論(音楽からコスプレ分析まで)としての側面も併せ持つ、希有な著書である。




「どんな音楽が好きなんですか?」という質問は学校や職場などで、社交辞令の一環としてよくなされるだろう。この質問に答える場合、わたしたちは何を念頭に置いて答えるだろうか。もちろん、「好きな音楽」は「何?」という質問なのだから、単純に自分の好きな音楽について答えればよいだけである。だが、本当に自分の好きな音楽について、どれだけの人が「素直に」答えているのだろうか。

本書で明らかにされるように、わたしたちは様々な状況や場面に応じて、この質問に対する返答の仕方を変化させている。学校の教室で、ライブ会場で、コスプレ会場で、学校の帰り道で、練習スタジオで、同じ人物でも全く違う答え方を行っているのである。また、それはどのようなメンバー構成で会話を行っているかによって、答え方が変わってくる。バンドメンバー内、クラスメイト、コスプレ仲間、軽音楽部内のバンドメンバー、学校外のバンドメンバー、吹奏楽部等まったく内容が違うのである。

音楽の中身、たとえばロックやポップスといったような「ジャンル」が影響しているわけではなく、何がこのメンバーの中で「公的な」音楽なのかということに影響している。つまり、このメンバー内では、最大公約数的に「LUNA SEA」が好きなバンドだとすると、それを念頭に音楽の話をする。

ただしここにはジェンダー間に違いがある。男性同士の場合、公的な音楽を念頭に置きながらも、敢えてそれとは違う音楽の話をして、メンバー内での自分の位置取りをはっきりさせたり(アウトサイダー的ポジション)、公的な音楽をどれだけ好きか(メンバー内で一番好きだ)ということをアピールし、自分がメンバーのNO.1の座に着こうという、メンバー内での政治的闘争が日常的に行われている。

女性同士の場合、こうした目に見える闘争は行われず、常に好きな音楽からはかけ離れた公的な音楽についての会話を繰り返す。たとえ自分の好きな音楽が否定されようが、公的な音楽感をメンバー内で共有しているという振る舞いに徹することにより、水面下での闘争に長けている。もちろん自分の好きな音楽について、まったく話さないわけではない。むしろ女性は、状況や場面に応じて、男性よりも柔軟に態度を変化させることができるため、自らの好きな音楽話をできる場面を見出し、公的な部分(クラスメイトとの会話)と私的な部分(ライブハウスでの会話)を使い分けることができている。

このように、ジェンダー間での相違があるものの、わたしたちは概ね、状況や場面の公的な音楽に相当影響を受けている。わたしたちの「好きな音楽」について「素直に」答える(ことができる)場面というのは、実はかなり限定されているのだ。「ぼくらの音楽」については話せても、「ぼくの音楽」について話せる状況は少ない。

他方でインターネット・コミュニティを前提とした場面では、同じ趣味の仲間を見つけやすい。同時に、同じ趣味の仲間同士のみの付き合いになってしまい、他の趣味人と分断されている状況にあるとの見解(島宇宙化)もわかるが、実はその趣味のサークル内での闘争は常にあり、公的なものからの影響は相当程度考えられる。

また、わたしたちは四六時中同じサークル内に留まっているわけではなく、学校や職場、家族その他友達付き合いにもかなりの時間を費やしている。つまり、社会は趣味の階層やクラスタによって分断できるものではなく、様々な趣味人が場面場面で互いに混ざり合っている、ということがここで確認できるわけだ。

さて、とはいえわたしたちはネット以後の社会を生きている。趣味のサークル内、もしくはサークル同士の闘争は激化の一途をたどっている。ところが公的なものからの影響はまったく無視することができず、むしろその本質はネット以後もまったく変わっていない。好きな音楽を語る場所は増えた。しかしその分闘争も増えた。今わたしたちはどこでどんな音楽を語っているのか。10代20代の頃どこでどんな音楽について語っていたのか。すべてのバンド経験者にこの本をおすすめする。

テロから10年

大澤 真幸
春秋社
¥ 1,890
(2005-01)

 
9・11テロに端を発した2冊。『文明〜』が「第三者の審級」を駆使した分析編。

それをもとに具体的な提案を行ったのが『現実〜』。

という構成ですかね。

なんとなく、戦争とテロの定義の違いというところで曖昧さを残すと思うのですが、
しかし大澤さんて多文化主義批判と、そして何より宗教大好きですよね〜。

資本主義こそ宗教なのだという主張ですからね。はい。。。

ところでテロといえば『現代戦争論』の加藤朗さんだと思うのですが、最近新しい著書が出てるっぽいですね。気になるところ。

そして「テロから10年」といえば、RADIO OF JIHADですがw
久々にウワサのピーチガールとして復活し、こそこそと更新しております。
スマホであれば移動中にだって聴けちゃう時代です。
どうぞよろしくお願いします。
http://www.youtube.com/watch?v=s_HzP3Yqx8g

FBページ

http://www.facebook.com/profile.php?id=100002626086674&sk=info#!/pages/%E3%82%A6%E3%83%AF%E3%82%B5%E3%81%AE%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AB/233493476688105

おとうさんの思想。

 
「ちゃんとしたカッコイイ父親をゲットしようゼ。じゃないと俺たち、ちゃんと自立できないゼ。」

もちろんここでいう俺は日本のことです。そして父親はアメリカです。というお決まりパターン。

そのパターンを江藤淳以来復活させ、90年代を代表する論争を巻き起こした『敗戦後論』。

それを引き継ぐ(?)かたちで大澤『戦後の思想空間』。

『虚構の時代の果て』では父親の対象がオウム=麻原だったと。

ところで、ジブリ最新作『コクリコ坂から』も父親がテーマ。

「おとうさんどこにいるの?帰ってきてーっ!」
「おとうさん、あなたは一体誰なんですか!?教えてくださいっ!」
という悲痛の叫びが漂う作品です。

収容所ネット

 
シベリア抑留を経験した詩人・石原吉郎の軌跡と詩・散文集の2冊。

シベリア抑留時代は、1人称でも2人称でもなく、自分も含めすべて3人称で世界を捉えていた石原。この言葉を真に受けるなら、すべてがわたしでもあなたでもなく、かれら/かのじょらとしてしか表現されず、世界に自分というものの存在自体が否定も肯定もなく存在しない状態ということになる。

なにかここにある種の思想的な、はっきりいうと情報社会におけるコミュニケーションの前提、つまり、パソコンに向き合っているときに、ネットのあちら側にいる人間を想定することとなんとなく似ている部分があるように思う。

人と人とのつながりが、3人称によって結ばれる世界。石原に言わせれば、ここ(収容所)にこそ本当の「連帯」がある、ということになるのだが、ネットでも同じことが肯定的に捉えられていた時期がある(今もそうかな?)。

当然収容所における連帯とは、チクリや互いの食糧を監視しあったりと、否定的な意味合いによる。互いが3人称の関係だからこそ、わたしやあなたは消去され、「連帯」がうまれるのだ。そこにはわたしの承認やあなたへの承認など一切存在しない。個の承認欲求からは「連帯」はうまれない。

互いが互いのパーソナリティを一切気にしない関係を保つこと。これを如何に肯定的な「連帯」へとつなげていくか、というのが所謂リベラリズムの系譜であり、最近ではそれをもっとも下支えしているツールがネットなのだ、という議論が巷に溢れかえっている。

しかし何よりおもしろいのは抑留から帰還した後の石原だ。3人称の世界から解き放たれ、1人称2人称の世界に帰還した。彼がどのような試行錯誤をし、詩を書くに至ったか、実際に読んでいただきたいが、その試行錯誤の先にあったもののひとつが「聖書」なのだ。この意味がなにか不気味なことに思えてならない。

リベラリズムが失敗したあとにやってくる神、に救いを求める人々の世界。


希望は思想か。

 
再び「技術決定論」の罠か…と思わせる出だし。ところが最後の方でそれを覆そう、今までのはそのための複線でした、けどね…という展開。

数学的民主主義と工学的民主主義のどちらも論理的に不可能であるなら、マクドナルドのイス(の硬さ)に代表されるアーキテクチャは何のために存在するのか。恐らく単に店の効率をあげるため、売り上げを伸ばすため、という単純な理由がその発端である。その新しい技術にどんな思想があって、これを使い続けることによってどんな未来(社会)がやってくるのか、という「想い」や「未来予測」は、人間の描きたい未来(社会)に対する欲望が投影されているだけである…ということでは終わらず、しっかりとその「想い」を「希望」として語ろう、という趣旨の本。

アーキテクチャをもとに数学的民主主義・工学的民主主義のどちらも社会は要請していない。それはわかる。けれども、まさに本書は、著者の言葉を借りるなら、「あえて」希望を語ろう、ということだろう。

だから恐らく、「思想」ってそういうことなんだろうと思います。

ナンシー関がすごかった。

 
2ちゃん的アイロニカルな没入(コミュニケーション・ツールのためのナショナリズム)を肯定的にとらえて、そこから何ができるか。わからん…という本。

この本から端を発した(?)「ナショナリズムも使い方によっては結構イケるんじゃね?」という議論てそういえば最近あまり聞かないな。んなことよりも「震災復興ナショナリズム」問題の方に関心が向いてしまってるというのが現状でしょうか(いやこれこそ笑えないナショナリズムですよ…)

そんなナショナリズム話や2ちゃん話よりナンシー関を90年代を代表する思想家として読むあたりがおもしろかったです。

高度情報化社会なんていらない。

 
『社会は情報化の夢を見る---[新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望 』(佐藤)

「技術は社会を変える」というありがちな情報社会論を一刀両断!という単純な議論にならないところがミソ。

ツイッターが社会を変える、のではない。わたしたち社会の側がツイッターを利用してどんな風にコミュニケートしているのか、どんな風に活用しているのか、それが以前のmixiとどう違うのか、ツイッターを利用することによってどんな風に日常生活(や政治)が変化したのか、という意味では、実際には「わたしたち社会が技術を選んでいる」わけである。

技術(ツイッター)そのものがわたしたちの社会(コミュニケーション)を決定しているわけではない。「将来こんな社会に生きてみたい」という欲望が技術(ツイッター)を選択しているのだ。したがって「技術は社会を変える」というメッセージをつい言ってみたくなってしまうのは、この後期近代社会のひとつの病理だ…。

以上の議論を踏まえて、具体的に技術内部(インターネット)におけるコミュニケーションを分析したのが、『暴走するインターネット―ネット社会に何が起きているか 』(鈴木)である。

近年、ネット世界の方がリアル世界よりもコミュニケーション・レベルにおいて熱狂の度合いが高まっている。そのことをネット世界特有のコミュニケーションである(から問題だ)と単純に結論付けないで、リアル世界とのコミュニケーションを補完する役割としてネット世界の熱狂があると説く。

がしかし、システム論に代表される自然科学から影響を受けた社会学理論を使うことによって、技術内部の罠に陥っている危険性がある。

佐藤によれば、近代社会の特徴として、社会の内部にあえて外部(革命)を見出し、社会を更新しようという動きが病理のように巣くっている。例えばIT革命でも、わたしたちの社会の外部に社会変革の夢を託すのではなく、社会内部(働き方や仕事)の更新によって社会を変えようという機運がある。

がしかし、特に社会の劇的な変化はなく、相変わらずここ数百年わたしたちの社会は近代社会のままなのだ。

つまりシステム論によってシステム(内部)とその周辺の環境(外部)を分けることとは、技術内部(ネット社会)に外部(リアル社会)を見出してコミュニケーションの変化をみるのだが、まさにその分析の仕方そのものが近代社会にありがちな話なのだ。

もちろんそれはネット内部のツイッターと2ちゃんをシステムと環境に分けるというのも、単に細分化されている視点が付与されているだけであって、問題は変わらない。

とはいえだからこそ、ネット内部の分析が、それも具体的な分析が必要なのだ、と佐藤は説いている(ように思う)。

いやこの際内部とか外部だとかのアナロジーを使用しない分析が必要なのだ。そのような思考はどうしても具体性から飛躍して政治的な抽象度の高い議論を召喚させてしまう。

別段それが悪いわけではないが、その発想そのものが近代特有のものだということを忘れてはならない。

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